「名古屋主婦殺害事件」ネットでの被害者批判。夫が明かした警察に相談できなかった理由

26年の時を経て、未解決だったはずの「名古屋主婦殺害事件」の容疑者が、ついに逮捕されました。その衝撃は日本中を駆け巡りましたが、その裏で、もう一つの“事件”が静かに始まっていたことに、あなたは気づいていたでしょうか。

被害者の夫、高羽悟さん。愛する妻を奪われ、四半世紀もの間、筆舌に尽くしがたい苦しみを背負ってきた彼に対し、ネット上から心ない声が浴びせられ始めたのです。

「なぜ、同級生だった犯人のことを警察に言わなかったんだ？」

逮捕された安福久美子容疑者が、悟さんの高校時代の同級生だった。この事実が報じられた瞬間、一部の人々はまるで“答え”を知っていたかのように、彼を非難する側に回りました。悲劇の遺族は、一夜にして「疑惑の人」へと仕立て上げられてしまったのです。

なぜ、こんな残酷なことが起こるのでしょうか。この記事では、悟さん自身の言葉から「言わなかった」のではなく「言えなかった」驚くべき真相を解き明かし、なぜ私たちがいとも簡単に石を投げてしまうのか、その心に潜む“凶器”の正体に迫ります。

「なぜ警察に伝えなかったのか？」――誰もが抱くこの疑問の答えは、隠蔽や庇い立てといった邪推とは180度異なる、人間の誰もが陥る心理的な「盲点」にありました。

事件後、警察は悟さんの自宅にあった年賀状や会社の組織表、そして高校時代の部活のOB・OG会の名簿まで、根こそぎ持ち去り捜査を行いました。もちろん、安福容疑者の名前もその名簿の中にありました。悟さんの告白に、耳を傾けてみましょう。

自分としてはひと通り当たっていて、この名簿以外が犯人だというふうに警察は思っていると私も思い込んでいた。（中略）それぐらい僕はシロだと思っていた。そんなことがあれば自分で言って、26年間も家賃を払わなくて済んだわけですから。決して自分が隠したとかかばったこともないし

容疑者に大学に押しかけられ喫茶店で泣かれた過去「なぜ警察に言わなかったのか」ネットで遺族に対する批判の声…被害者夫が理由を明かす – ABEMA TIMES

彼の頭の中には、あまりにも強固な前提が出来上がっていたのです。「警察というプロが捜査したのだから、この名簿にいる同級生は全員“シロ”に決まっている」と。これは意図的に情報を隠したわけではありません。「容疑者はこの中にいるはずがない」という絶対的な信頼と安心感が、思考そのものを停止させてしまっていたのです。この“思い込みのワナ”が、26年もの間、真相を覆い隠すベールの一枚になっていたとは、あまりにも皮肉な話です。

さらに私たちを驚かせるのは、悟さん自身が、事件の伏線とも言える過去の出来事をすっかり忘れていたという事実です。逮捕後、親族との会話の中で、妹さんから衝撃的な記憶を呼び覚まされます。

（逮捕後の）法事後の二次会の食事会で妹がポロっと、お兄さんが『喫茶で泣かれて迷惑した』とぶりぶり怒って帰ってきた。『あいつが何とか久美子じゃなかったの？』と言うから。それぐらい僕は忘れていたけど、妹の方はやっぱり印象があったと思う

容疑者に大学に押しかけられ喫茶店で泣かれた過去「なぜ警察に言わなかったのか」ネットで遺族に対する批判の声…被害者夫が理由を明かす – ABEMA TIMES

大学時代、安福容疑者に押しかけられ、喫茶店で泣かれた――。今、結果を知っている私たちから見れば、それは明らかな異常信号です。しかし、悟さん本人にとっては、数十年も前の、膨大な人間関係の記憶の中に埋もれた、一つのエピソードでしかありませんでした。

信じられないかもしれませんが、これは決して特殊なことではないのです。あなたの記憶だって、実は驚くほど曖昧なはずです。重要でないと脳が判断した情報は、時間と共に静かに消えていく…。当時の悟さんにとって、この出来事は「少し迷惑だった過去の思い出」であり、まさかその記憶の欠片が、26年後に愛する妻の命を奪う事件に繋がるなど、誰が想像できるでしょうか？ いや、できるはずがないのです。

悟さんが陥った「警察が調べた名簿の人物はシロだ」という思い込み。これを心理学の世界では「確証バイアス」や「権威への信頼」といった認知バイアスの一種として説明できます。

• 確証バイアス: 自分が「こうだ」と信じたい仮説を肯定する情報ばかりに目が行き、それに反する情報を無意識に無視してしまう心のクセ。
• 権威への信頼: 専門家や警察といった「権威」の判断を、「きっと正しいのだろう」と深く考えずに信じてしまう傾向。

「彼が特別だっただけだ」そう思うかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか？ 実は、この思考のワナは、あなたの日常にも深く、そして静かに潜んでいるのです。

• 「有名大学の教授が言っているんだから、絶対に間違いない」
• 「テレビで見たから、これが事実なんだろう」
• 「一度医者に診てもらったから、この体の痛みは大したことないはずだ」

心当たりはありませんか？ 私たちは日々、無意識のうちに思考をショートカットし、特定の情報を鵜呑みにすることで、複雑な世界を生き抜いています。今回の事件は、「専門家が言っているから」「一度調べたから」という安心感が、いかに重大な真実を見えなくさせてしまうかという恐ろしい教訓を、私たちに突きつけているのです。

では、本題に戻りましょう。なぜネット上では、これほど無責任な「被害者批判」が起きてしまうのでしょうか。悟さんに向けられた「なぜ言わなかった」という声は、この事件に限らず、繰り返される悲劇の典型です。その背景には、私たちの心に潜む、2つの厄介なメカニズムが存在します。

考えてみてください。今、あなたはこの事件の「答え」を知っています。犯人が、夫の同級生だったという結末を。その答えを知った上で過去を振り返ると、まるで全ての出来事が犯行を示す伏線であったかのように見えてきませんか？ 「喫茶店で泣かれた」「OB会での再会」…一つひとつが、犯人に繋がる決定的なヒントだったように感じられてしまうのです。

しかし、これは典型的な「後知恵バイアス」です。当事者である悟さんは、タイムマシンを持っていません。当時の彼にとって、それらは数えきれない日常の断片の一つに過ぎませんでした。「自分なら気づけたはずだ」と批判するのは、結果というカンニングペーパーを手にした者の、傲慢さに他ならないのです。

もう一つは「公正世界仮説」という、さらに根深い心理です。これは、「この世界は公正であってほしい。努力は報われ、悪い行いは罰せられるべきだ」と信じたい、私たちの切実な願望から生まれます。

この信念が暴走すると、どうなるか。何の落ち度もない善良な人が突然命を奪われるという理不尽な現実を目の当たりにした時、「被害者にも何か悪い点があったに違いない」と、無意識に被害者の落ち度を探し始めてしまうのです。なぜなら、それを認めなければ「自分の身にも同じことが起こるかもしれない」という耐え難い不安と向き合わなければならないから。被害者を批判することで、「自分はあの人とは違う。だから私は安全だ」と心に壁を作り、安心感を得ようとする、あまりにも残酷な自己防衛なのです。

この見えない刃は、京都アニメーション放火殺人事件の遺族をはじめ、多くの人々を苦しめてきました。匿名という仮面を被れるネット空間では、この無責任な「正義感」はさらに加速し、遺族の心をえぐる鋭利な凶器へと姿を変えてしまうのです。

高羽悟さんの告白は、「なぜ言わなかったのか」という単純な問いの裏に、人間の記憶の不確かさや、思考の落とし穴といった、私たち自身の問題をも浮き彫りにしました。

彼が何かを隠していたわけでは、決してありませんでした。むしろ、「警察が調べたからシロだ」と信じ込み、その可能性を思考の棚から下ろしてしまった、もう一人の「思い込みの被害者」だったのかもしれないのです。

26年間、事件現場となった自宅の家賃を払い続け、時が止まったままの部屋で、いつか犯人が捕まる日を待ち続けた悟さん。その想像を絶する苦しみを、私たちは本当に理解できるでしょうか。SNSで流れてくる数行の情報だけで、彼の26年間を裁く権利など、誰にもあるはずがありません。

この記事を読んでくださったあなたが、次に誰かに批判の言葉を向けたくなった時、どうか一瞬だけ立ち止まって、心の中で自問してみてください。

「自分は、本当に“神の視点”を持っているのだろうか？」
「この正義感は、『後知恵』という名のドーピングに頼ってはいないか？」
「画面の向こう側にいる相手にも、自分には計り知れない物語があるのではないか？」

その一瞬の想像力が、無意識のうちに誰かを傷つける「二次加害」の連鎖から、私たちを救ってくれるはずです。悟さんの26年間の苦しみは、情報という濁流の中で生きる私たち一人ひとりの倫理観を、静かに、そして鋭く問いかけているのです。