なぜ日本は占領軍に慰安所を?RAA設立の背景と女性たちの過酷な実態

社会

1945年8月15日の終戦から、わずか数日後。日本政府が占領軍兵士のための「特殊慰安施設」の設置を急いでいたという事実は、現代の私たちにとって大きな衝撃と疑問を投げかけます。なぜ国が主導したのか? 誰が、どのように運営し、そこで働いた女性たちはどうなったのか? この記事では、歴史の闇に埋もれがちなRAA(特殊慰安施設協会)の実態を、具体的なデータと証言に基づき、行動につながる情報として分かりやすく解説します。

なぜ政府は慰安所を設置したのか? その目的と背景

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終戦の混乱と虚脱の中、なぜ政府はこれほど迅速に慰安所の設置を決断したのでしょうか。その背景には、占領軍の進駐に対する極度の恐怖と、当時の社会に根付いた歪んだ価値観がありました。

「性の防波堤」という大義名分

最大の目的は、占領軍兵士による日本の一般女性への性暴力の発生を防ぐことでした。政府や警察当局は、数十万の連合国軍兵士の性的欲求が、一般市民、特に「良家の婦女子」に向かうことを極度に恐れていました。

これは、一部の女性を犠牲にすることで他の女性を守るという「性の防波堤」思想に基づくものでした。このため、内務省は終戦からわずか3日後の8月18日に「外国軍駐屯地ニ於ケル慰安施設設置ニ関スル件」という秘密通牒を全国の警察に通達。この驚異的なスピードは、政府がいかにこの問題を深刻に捉え、切迫感を持っていたかを示しています。

国家中枢によるトップダウンの指示

この計画が単なる官僚レベルの判断ではなかったことは、当時の警視総監・坂信弥の証言からも明らかです。坂は戦後、国務大臣であった近衛文麿から「日本の娘の純潔を守るために、犠牲になる人柱が必要だ」と直接依頼されたと述べています。これは、慰安所の設置が、敗戦処理を担う国家中枢の明確な意向だったことを物語っています。

RAAの実態:どう集められ、どう扱われたか?

国の緊急プロジェクトとして始まった慰安所計画。その中心的役割を担ったのが、東京で設立された特殊慰安施設協会(RAA: Recreation and Amusement Association)です。表向きは健全な娯楽施設を装い、実質的な運営を行いました。

「お国のため」を謳った募集広告

女性たちは新聞広告などを通じて公募されましたが、広告には「慰安婦」という言葉は使われず、以下のような甘い言葉が並びました。

  • 新日本女性求む、宿舎、衣服、食料すべて支給
  • 仕事内容を「渉外事務員」「特別女子外交係」と表現
  • 「前借ニモ応ズ」といった好条件を提示

敗戦後の食糧難や住宅難に苦しむ女性たちにとって、これは非常に魅力的な求人でした。しかし、性的サービスの提供という本当の仕事内容は伏せられており、面接で実態を知り辞退する女性が後を絶たなかったと言われます。結果として、戦争で家族や家を失った生活困窮者の未経験女性たちが、生きるために応募せざるを得ない状況に追い込まれていきました。(出典: 日本占領を問い直す―ジェンダーと地域からの視点

「高給」とは名ばかりの過酷な労働

「高給支給」という広告とは裏腹に、彼女たちの労働環境は極めて過酷でした。記録によれば、ある女性は1日に40人以上の兵士の相手をすることもあったとされ、暴力や性病の恐怖に常に晒されていました。収入の多くは施設側に搾取され、手元にはわずかな金額しか残らなかったケースも報告されています。(出典: Wikipedia「特殊慰安施設協会」

「強制」はあったのか?

戦時中の「慰安婦」問題で議論されるような、軍による直接的な「強制連行」は確認されていません。しかし、敗戦後の極度の貧困と社会の混乱の中、生きるためにこの仕事を選ばざるを得なかった女性が多数いたことは紛れもない事実です。実態を隠した募集方法は、経済的・社会的な状況を利用した、間接的だが極めて強い強制力が働いていたと言えるでしょう。

全国展開とGHQの関与

この占領軍向け慰安所は、東京だけの話ではありませんでした。内務省の通達に基づき、全国各地に同様の施設が作られていたのです。

東京から全国へ、その規模は

RAAによる慰安所第一号は、1945年8月27日に開業した東京・大森海岸の料亭「小町園」でした。その後、RAAはキャバレーやダンスホールなども開設。そして、この動きは全国に波及し、各自治体の警察の監督下で「特殊慰安施設」が運営されました。横浜、横須賀、大阪、広島(大竹市)、秋田など、占領軍の駐屯地があった多くの地域で施設の存在が確認されています。

正確な施設数は不明ですが、働いていた女性の数は、RAA関連施設だけでも最盛期には7万人にのぼったと推計されています。(出典: Wikipedia「特殊慰安施設協会」)これは、この政策がいかに大規模であったかを物語っています。

GHQの暗黙の了解と利用

GHQが公式に慰安所の設置を「命令」した記録はありません。しかし、彼らが単なる「利用者」でなかったことは、複数の資料から明らかです。GHQは東京都に対し、RAA以外にも女性の提供を求め、将校用、白人兵士用、黒人兵士用といった「仕分け」の相談に都の担当者が応じていた記録も残っています。(出典: Wikipedia「日本の慰安婦」

このため、専門家はRAAを「日本政府が準備し、米軍がこれを利用した『合作』であり、日米合作による組織的性暴力であった」と指摘しています。GHQは公娼制度を認めない建前を持ちながら、実態を黙認・利用し、問題が表面化すると一転して禁止するという二枚舌の対応を見せたのです。

突然の閉鎖と残された女性たち

国策として始まった慰安所ですが、その運営は長くは続きませんでした。わずか7ヶ月ほどで、突然の終わりを迎えます。

わずか7ヶ月での閉鎖命令

1946年3月26日、GHQは「公娼制度は非民主的」との理由を挙げ、すべての慰安施設への米兵の立ち入りを禁止。これにより、RAAをはじめとする施設は事実上の閉鎖に追い込まれました。背景には、兵士間での性病の急速な蔓延と、公娼制度を人道上の問題として批判するアメリカ本国の世論の高まりがありました。(出典: Wikipedia「特殊慰安施設協会」

路頭に迷った女性たちの過酷なその後

突然の閉鎖は、何の保障もないまま5万人以上の女性たちを解雇という形で路頭に放り出す結果となりました。多額の前借金を抱え、社会的な烙印を押された彼女たちの多くは、生きるために街頭に立ち、「パンパン」と呼ばれる街娼にならざるを得ませんでした。(出典: NHKアーカイブス)「性の防波堤」という名目で集められた女性たちは、用済みとなると何の保護もなく社会に投げ出されたのです。

「狩り込み」と「赤線」への移行

RAA閉鎖後、MP(米軍憲兵)と日本の警察は性病対策として街娼の一斉検挙(狩り込み)を行いましたが、これは一般女性まで巻き込む深刻な人権侵害を引き起こしました。

一方で、売春行為は警察が黙認した「赤線地帯」に場所を移し、1958年の売春防止法施行まで存続することになります。国の管理から非公式な管理へと形を変え、女性の搾取構造は温存されました。

まとめ:この歴史から私たちができること

占領軍向け慰安所の設置は、国家の危機という名目の下、社会の最も弱い立場にいた女性たちが犠牲にされた歴史です。「性の防波堤」という発想は、彼女たちの人権を踏みにじっただけでなく、何ら根本的な解決策にはなりませんでした。この事実から目を背けず、なぜこのような政策が実行されたのかを冷静に見つめ、二度と繰り返さないために行動することが重要です。

未来のための具体的なアクション

  • 一次資料に触れる: 国立公文書館のデジタルアーカイブでは、関連する公文書の一部を閲覧できます。「アジア歴史資料センター」などでRAAや慰安施設に関する記録を検索し、一次情報に触れてみましょう。
  • 専門家の研究を知る: この問題について深く掘り下げた書籍を読むことも有効です。例えば、平井和子氏の『日本占領とジェンダー』などは、この分野の基本的な研究書として知られています。
  • 現代の問題とつなげて考える: 貧困や社会的孤立が、女性を性的搾取の対象にしてしまう構造は、残念ながら現代にも存在します。この歴史を教訓に、現代社会における人権問題、特に経済的弱者の保護について関心を持ち、議論するきっかけにしてください。

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国の政策で慰安所が作られたという歴史、皆さんはご存じでしたか?この事実を知って、率直にどんなことを感じましたか?

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