この記事のポイント
- 高市早苗氏の「外国人が奈良の鹿を蹴る」発言は、明確な根拠なきまま、多くの人々の潜在的な不満に火をつけ、安易な外国人ヘイトを煽る“罠”となっています。
- しかし歴史を紐解けば、斧で殺害するなど、日本人自身が遥かに残忍な形で奈良の鹿を虐待してきた「不都合な真実」が横たわっています。
- つまり、問題の本質は「外国人 vs 日本人」という単純な対立ではありません。それは、私たちが抱える動物との共存の課題、そして何より、自らの加害史から目を背ける“見て見ぬふり”の姿勢そのものなのです。
- 感情的なヘイトに身を任せる前に、一度立ち止まる勇気を。この記事は、多角的な事実から、私たちが本当に向き合うべき問題は何かを問いかけます。
「また外国人の仕業か」――高市氏“鹿キック”発言に日本中が熱狂した夜、私たちは何を見誤ったのか?
「皆様こんにちは。高市早苗、“奈良の女”です。…そんな奈良の鹿をですよ。足で蹴り上げるとんでもない人がいます。外国から観光に来て、日本人が大切にしているものをわざと痛めつけようとする人がいるんだとすれば、皆さん、何かが行き過ぎている」
2025年9月22日、自民党総裁選の演説会で放たれたこの言葉に、SNSは沸騰しました。「よくぞ言ってくれた」「事実を指摘しただけだ」。オーバーツーリズムへの苛立ち、一部の外国人観光客への不満。日頃、私たちが心の奥底にため込んでいたモヤモヤが、この一言で一気に噴出したかのようでした。
しかし、この“正義の鉄槌”に酔いしれる前に、少しだけ立ち止まって考えてみてほしいのです。本当に、悪いのは「マナーの悪い外国人」だけなのでしょうか? そして、「神の使い」と崇める奈良の鹿に対し、私たち日本人自身は、一点の曇りもなく清廉潔白だったと胸を張れるのでしょうか?
この記事では、多くの人が目を背けたがる“不都合な真実”の扉を開けていきます。そこに映し出されるのは、安易な外国人ヘイトがいかに脆い土台の上に成り立っているか、そして「奈良の鹿の虐待」という問題の根深い責任が、実は私たち日本人自身にあるという、衝撃的な光景です。
まず、落ち着こう。そもそも「外国人」が鹿を蹴ったという証拠はあるのか?
この発言の根拠を調べていくと、私たちは驚くべき事実に突き当たります。なんと、高市氏自身が明確な「証拠」を何一つ示せていないのです。
驚きの事実。高市氏が根拠としたのは「証拠」ではなく「空気」だった
「しんぶん赤旗」が報じた9月24日の記者会見。ここで根拠を問われた彼女の口から出たのは、決定的な証言やデータではありませんでした。
記者に、外国人がシカを蹴ったことの「根拠はあったんですか。確かめたんですか」と質問されると、高市氏は、「こういったもの(奈良公園のシカの被害など)が流布されているということによる、私たちの不安感、そして怒り、というものがある。これは確かだ」などと答え、根拠は示せませんでした。
そう、彼女が根拠としたのは具体的な証拠ではなく、SNSで拡散される“空気”や“感情”だったのです。さらに、起点となったダイヤモンド・オンラインの記事によれば、鹿を保護する「奈良の鹿愛護会」は、外国人観光客によるそうした行為を「見たことがない」と証言。拡散された動画の人物が本当に外国人なのかすら、誰にも断定できていません。
真実を報じたメディアが炎上。「信じたい物語」が事実を超えるとき
さらに問題を根深くしているのが、ファクトを検証しようとする動きそのものへの、激しい攻撃です。日本テレビ「news every.」が、現地で「攻撃的な観光客は基本的に見かけない」というリアルな声を放送すると、SNSは「やらせだ」「高市潰しの印象操作」といった罵詈雑言の嵐に見舞われました。事態はエスカレートし、インタビューに答えた個人を特定しようとする動きにまで発展。日本テレビが公式サイトで「誹謗(ひぼう)中傷や迷惑行為等を行うことは、厳に慎んでいただきたくお願い申し上げます」と声明を発表する異常事態となったのです。
もはや、事実がどうであるかは関係ない。自分たちの「信じたい物語」を脅かす者は、すべてが敵。この状況は、確証なき情報がいかに容易に社会の分断を煽るか、その恐ろしさをまざまざと見せつけています。
本題へようこそ。あなたが知らない、キックより遥かに残忍な“日本人のシカ虐待史”
「外国人が神聖な鹿を!」と怒りの矛先を外に向けるのは、簡単で気持ちがいいかもしれません。しかし、その前に、私たちは一度、鏡で自分たちの姿を直視する必要があるのではないでしょうか。なぜなら、歴史のページをめくれば、キックどころではない、おぞましいほどの残忍さで奈良の鹿を虐待し、その命を奪ってきたのが、紛れもなく私たち日本人自身であるという事実が、血のように滲んでいるからです。
ダイヤモンド・オンラインの記事が暴き出した、私たちが目を背けてきた衝撃の歴史。その一部を、覚悟してご覧ください。
- 2021年2月:奈良公園内で、雌のシカ(推定11歳)が斧のようなもので頭部をかち割られて殺害される。逮捕されたのは、三重県松阪市の23歳のとび職の男だった。
- 2010年3月:同じく奈良公園で、雌のシカがクロスボウ(洋弓銃)で射抜かれて死亡。解剖の結果、お腹には赤ちゃんがいたことが判明した。犯人は、三重県津市の40歳の会社役員の男だった。
- 戦時中:食糧難から、奈良の鹿を殺して食べたとして約30人が逮捕される。その中には、東大寺の関係者も含まれていたという。
信じがたいかもしれませんが、これらはあくまで立件された、氷山のほんの一角です。立件されない暴力や虐待行為が、その背後にどれだけ隠されているか、想像するだけで身の毛がよだちます。「神の使い」という美しい物語の裏側で、私たち日本人が、奈良の鹿にどれだけ残酷な仕打ちを繰り返してきたか。これこそが、外国人ヘイトの前にまず私たちが直視すべき「不都合な真実」なのです。
もちろん、国籍に関係なく動物への危害が許されないのは大前提です。朝日新聞の報道にもあるように、観光客が鹿せんべいを求めるシカに驚き、つい手で押しのけてしまうような偶発的な接触は、日常的に起こりうるでしょう。しかし、それと、斧やクロスボウで計画的に命を奪うという行為が、同じ土俵で語れるはずもありません。
なぜ私たちは“自分たちの罪”を忘れ、外国人を叩いてしまうのか?
斧で頭をかち割り、クロスボウで腹の子ごと射殺する。これほどおぞましい自分たちの加害史を棚に上げ、なぜ私たちは不確かな「外国人の鹿キック」にこれほどまで熱狂してしまうのでしょうか。その心理の奥底には、二つの根深い構造が潜んでいると、私は分析します。
その正体①:「神の使い」か「害獣」か。私たちのあまりに“ご都合主義”な動物観
私たちは奈良公園の鹿を「神の使い」「国の天然記念物」と崇めます。しかし、彼らが一歩公園の外へ出て農作物を荒らせば、途端に「害獣」として駆除の対象に変わる。同じシカという命に対し、私たちは自分たちの都合で「聖」と「俗」のレッテルをいとも簡単に貼り替えているのです。
この無自覚な“ご都合主義”こそが、今回の騒動の温床ではないでしょうか。「日本人が大切にしているもの」という言葉の裏には、「我々が保護すると決めた、都合の良い可愛い存在」という傲慢さが隠れている。だからこそ、その聖域が「外部の人間(外国人)」に脅かされた(ように見えた)時、自分たちの内なる矛盾から目を逸らすかのように、過剰な攻撃性が生まれるのです。
その正体②:「外の敵」で「内の問題」を隠す、政治の“古典的トリック”
高市氏の発言と、それに熱狂する私たちの姿は、残念ながら、政治プロパガンダの最も古典的な手法そのものです。それは、「外なる敵」を作り出すことで、「内なる問題」から国民の目を逸らさせるという、古びたトリック。
「マナーの悪い外国人」という、これ以上なく分かりやすい“敵”を作り上げる。そうすることで、私たちは、もっと複雑で、もっと目を背けたくなるような「内なる問題」と向き合うことから、いとも簡単に逃げられてしまうのです。例えば、こんな問題から。
- 日本人自身による、陰湿で残忍な動物虐待の歴史。
- 観光公害と野生動物の共存という、現代社会が抱える構造的な課題。
- 「神の使い」と「害獣」の間で揺れ動く、私たち自身の矛盾した価値観。
これらの問題と向き合うのは、骨が折れます。時には自己嫌悪に陥るでしょう。それより「悪いのはあいつらだ」と指をさす方が、遥かに簡単で、遥かに心地よい。政治家がその心地よさを提供し、私たちがそれに飛びつく。この構図こそが、私たちが自らの罪を忘れ、安易なヘイトに流されてしまう根本原因なのです。
結論:私たちが本当に戦うべき「敵」は、外国人ではない
高市氏の発言から始まったこの騒動は、今、私たち一人ひとりに鋭い問いを突きつけています。私たちが本当に戦うべき敵は、不確かな情報で作り上げられた「外国人観光客」という名の幻なのでしょうか。
断じて、違う。本当の敵がいるとすれば、それは事実を確かめもせず、感情の波に乗って他者を断罪してしまう、私たち自身の“思考停止”です。自らの暗い歴史から目を背け、心地よい「被害者」の物語に逃げ込もうとする、私たち自身の“弱さ”です。
この問題を「外国人 vs 日本人」という矮小な対立の泥沼に引きずり込んではいけません。本質は、「人間と野生動物がどう共生していくか」という普遍的なテーマであり、「私たちは自らの歴史と社会の矛盾にどう向き合うべきか」という、内へ向けられた問いなのです。
安易なヘイトは、一瞬だけ胸をスッとさせてくれるかもしれません。しかし、その甘い麻薬の先に待っているのは、修復不可能な社会の分断と、本質的な問題から目を背け続けた未来です。私たちが今すべきことは、SNSで誰かを攻撃することではなく、複数の情報源にあたり、事実を冷静に見極め、自分たちの社会が抱える「不都合な真実」から逃げないことではないでしょうか。
もし、奈良の鹿が本当に危険にさらされているのなら、その根源は、一部の観光客のマナー違反などという表層的な問題ではない。それは、この社会に根深く存在する動物虐待の病理と、それを見て見ぬふりをしてきた私たち自身の沈黙にあるのかもしれないのです。その重い責任から逃れるため、都合のいい「敵」を祭り上げ、石を投げる。そんな悲しい連鎖は、もう、私たちの世代で終わりにしませんか。
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