この記事のポイント
- 「私が母でなければ…」――山上徹也被告の母親が漏らした痛切な告白を入り口に、事件の深層をえぐり出す。
- 「献金ノルマ」「借金の連鎖」…家庭を崩壊させる旧統一教会の狂気の献金システムを、元信者の生々しい証言から暴き出す。
- 社会は確かに動いた。だが、当の山上被告は「宗教2世にとって本当に良かったのか」と、英雄視されることを拒むかのように葛藤している。
- 加害者の母であると同時に、思考を支配され家族を失った「もう一人の被害者」。彼女を追い詰めた構造的問題に光を当てる。
「私が母親じゃなければ…」――この“懺悔”を、あなたはどう聞きますか?
「私が、あの子の母親じゃなかったら…もっと違う人生を歩めたのかもしれない」
もしあなたの目の前で、日本中を震撼させたあの銃撃事件の被告の母親が、こう呟いたとしたら。あなたなら、どんな言葉をかけますか?
安倍晋三元首相銃撃事件から2年余り。まもなく始まる山上徹也被告の初公判を前に、彼の母親が絞り出したこの一言は、単なる加害者家族の後悔の言葉として聞き流せるものではありません。むしろ私は、この言葉にこそ、一つの家庭を崩壊させ、日本社会を根底から揺るがした事件の「本質」が隠されている、とさえ考えています。
TBS NEWS DIGの独自取材で明かされた母親の告白は、私たちに鋭い問いを突きつけます。なぜ彼女は、家庭を犠牲にしてまでのめり込んだのか。なぜ息子は、テロという最悪の手段に訴えるまで追い詰められたのか。そして、この悲劇は本当に、山上家だけの特殊な物語だったのでしょうか?
さあ、彼女の言葉を道しるべに、この事件の深淵を覗いてみましょう。旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の高額献金という名の搾取システム、引き裂かれた家族の現実、そして「宗教2世」という言葉だけでは語り尽くせない魂の叫び。これは、遠い世界の誰かの話ではありません。私たちが生きる、この社会に潜む構造的な病理の物語なのです。
1億円は氷山の一角。「泥棒と売春以外は何でもやれ」狂気の献金システム
「母親が旧統一教会に献金し、家庭がめちゃくちゃになった」。事件直後から繰り返されてきた山上被告のこの供述。しかし、その「めちゃくちゃ」という一言の裏で繰り広げられていた現実は、あなたの想像を、おそらく遥かに超えています。
「献金ノルマ」という名の地獄。なぜ家族は壊されなければならなかったのか?
山上被告の母親は、1億円近くを献金したとされています。それは果たして、心からの信仰の証だったのでしょうか?「あれは献金じゃない」。ある元2世信者は、怒りを滲ませてこう語ります。
僕は実態を知っている。親が責任者でもあったので見てきた。事務所のボードに『献金ノルマ』と書いてある。献金ではないです、それは。本人の意思を尊重した世界を超えてやってきた世界はあった
【独自】「私が母でなければ…」山上被告の母が語る後悔 “献金”の実態は? 旧統一教会めぐる2つの裁判の行方【報道特集】TBS NEWS DIG Powered by JNN
もはや、そこに個人の意思が入り込む隙間はありません。この元信者もまた、両親と自身が借金を重ね、「借金を借金でやりくりする異常事態」に陥っていたと告白します。山上家で起きていた悲劇は、決して特別なものではなかったのです。
さらに耳を疑うのは、その金策の方法です。毎日新聞の報道で、ある元信者は教会の地区トップからこう発破をかけられたと証言しています。「泥棒と売春以外なら何をしてもいい。とにかく金を作れ」。これは信仰ではありません。紛れもない、組織的な収奪システムです。
被害総額50億円超。司法が暴いた「組織的収奪」の不都合な真実
こうした悪質な手口は、一部の暴走ではありませんでした。読売新聞の社説によれば、被害対策弁護団が把握しているだけで被害者は190人以上、その損害額は実に50億円を超えるというのです。
この異常事態に対し、ついに司法の鉄槌が下されます。2025年3月、東京地裁は旧統一教会に解散命令を決定。判決は「違法な献金勧誘は40年間にわたって全国で行われ、例のない規模の被害を生じさせた」「総じて悪質で、本人や近親者の生活の維持に重大な支障が生じている」と、その組織ぐるみの犯罪性を厳しく断罪しました。
そう、山上被告の家庭を崩壊させたあの献金地獄は、彼一人の不運などではなかった。教団の体質そのものに根差した、普遍的な問題だったことが、今や司法の場でも公然の事実となったのです。
「僕がやったことは、本当に“良かった”のか?」――英雄視を拒む被告の葛藤
彼が放った一発の凶弾は、皮肉にも、これまで誰も光を当てようとしなかった旧統一教会の闇を白日の下に晒しました。社会は大きく動き、法律さえも変わった。しかし、その引き金を引いた張本人は、この状況をどう見ているのでしょうか。
社会を動かしたテロリスト、その胸に渦巻く複雑な想い
弁護士を通じて伝えられた山上被告の言葉。それは、達成感に満ちたものでは全くありませんでした。むしろ、そこからは深い戸惑いと苦悩が滲み出ています。
現在の状況を引き起こすとは思っていなかった。事件を起こしたことが、宗教2世の人にとって、良かったのか悪かったのか分からない。新聞などを読んでいて、旧統一教会問題の解決の難しさを感じます
【独自】「私が母でなければ…」山上被告の母が語る後悔 “献金”の実態は? 旧統一教会めぐる2つの裁判の行方【報道特集】TBS NEWS DIG Powered by JNN
「宗教2世」という言葉が市民権を得て、被害者救済法が成立し、教団には解散命令が下る。彼の行動が社会を根底から揺さぶったのは紛れもない事実です。しかし、彼はその結果を素直に喜べずにいる。まるで、自分の起こしたことの巨大すぎる影響力の前で、立ち尽くしているかのようです。
「あいつを一人にするな」――なぜ他の被害者家族は“加害者”に共感するのか
山上被告の凶行は、断じて許されるものではありません。しかし、彼と同じように、旧統一教会によって家族も人生もめちゃくちゃにされた人々は、その動機に、一言では言い表せない複雑な共感を寄せています。
約30年前に元妻が入信し、1億円を献金され、ついには長男を自殺で亡くした橋田達夫さんの言葉は、私たちの胸に重く響きます。「(山上被告が)やったことは本当に悪いこと。やったらいけないことだけど、ああいう考えを持っている人は、何十人も全国にいると思う」。そして、こう続けました。「(山上被告)一人の問題じゃない。一人にさせてはいけない、出来ることなら、助けてあげたいという気持ち」。これは、決して加害者への甘い同情ではない。同じ地獄を見た者だけが分かり合える、追い詰められた魂への慟哭なのです。
鬼母か、それとも“もう一人の被害者”か?マインドコントロールの恐るべき罠
事件以来、山上被告の母親は「息子をテロリストに変えた元凶」として、世間の厳しい目に晒されてきました。しかし、彼女が漏らした「私が母でなければ…」という言葉に深く耳を澄ます時、全く違う景色が見えてくるのです。そう、彼女自身が、巨大組織によるマインドコントロールの「もう一人の被害者」だったのではないか、という可能性です。
「あなたも同じ立場だったかも」元信者が語る思考停止のメカニズム
なぜ人は、我が子の未来や家庭生活という、かけがえのないものを犠牲にしてまで、献金を続けてしまうのでしょうか。その答えは、単なる「信仰心」という言葉では説明がつきません。元信者でもあるジャーナリストの多田文明さんが語るように、そこには外部情報を遮断し、少しずつ教義を刷り込むことで、人の正常な判断能力を奪い、組織への絶対的な「依存状態」へと追い込む、恐ろしく巧妙な手口が存在するのです。
この視点に立てば、山上被告の母親の行動は、悪意からではなく、むしろ「思考を停止させられていた」結果と捉えることができます。ある元信者のこの言葉が、全てを物語っているのではないでしょうか。
あのまま妄信していたら、自分もあの母親と同じ立場になっていたかもしれない
彼女は狂っていたのではありません。「狂わされていた」のです。彼女は息子を追い詰めた加害者の一人であると同時に、教団によって思考を奪われ、結果的に最も大切な家族を失った被害者でもあった。私たちは、この二つの側面から彼女を見つめる必要があるのではないでしょうか。
報道によれば、彼女は今後、弁護側の証人として法廷に立つといいます(毎日放送 2025年10月21日)。法廷で何を語るのか。私たちは彼女を一方的に断罪する前に、個人が巨大組織に飲み込まれていく、この非対称な構造そのものにこそ、目を向けなければなりません。
他人事では済まされない。この事件が私たちに突きつけた「本当の課題」
安倍元首相銃撃事件を、山上徹也という一人の青年の個人的な復讐劇として片付けてしまうのは、あまりにも安易すぎます。彼の孤独な背中の向こうには、旧統一教会による長年の人権侵害があり、それを見て見ぬふりをしてきた政治の歪みがあり、そして、現代社会が抱える根深い病理が、どす黒い影を落としているのです。
山上被告の母親の苦悩と、山上被告自身の絶望は、まさに鏡の表裏です。母親は、救いを求めて足を踏み入れた共同体によって、家族という最後の拠り所を奪われました。息子は、その母親によって奪われた人生を取り戻そうともがき、社会から見捨てられ、憎悪という名の鎧を身に纏いました。これは、「誰にも認められない苦しみ」や「誰にも気づかれない貧困」が、いかに人を極限まで追い詰めるかを示す、あまりにも痛ましいケーススタディなのです。
この事件は、一過性のスキャンダルではありません。私たち一人ひとりに突きつけられた、重い「問い」なのです。なぜ、こうしたカルト的組織は社会から根絶されないのか。なぜ、政治と宗教の不透明な関係は断ち切れないのか。そして何より、社会の片隅で声なき悲鳴を上げている人々に、私たちはどうすれば手を差し伸べることができるのか。
これから法廷で語られるであろう、母親の言葉、そして被告自身の言葉。その一つひとつから目を背けず、社会全体でこの重い問いを引き受け続けること。それこそが、この悲劇から私たちが学ぶべき、唯一の道だと私は信じています。

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